第七 高野聖 (Koyahijiri) | ||
7. 第七
「果が無いから肝を据ゑた、固より引返す分ではない。舊の處には矢張丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ驅け拔けたが、今にもあとの半分が絡ひつきさうで耐らぬから、氣臆がして足が筋張ると石に躓いて轉んだ、其時膝節を痛めましたものと見える。
それからがく/\して歩行くのが少し難澁になつたけれども、此處で倒れては温氣で蒸殺されるばかりぢやと、我身で我身を激まして首筋を取つて引立てるやうにして峠の方へ。
何しろ路傍の草いきれが可恐しい、大鳥の卵見たやうなものなんぞ足許にごろ/\して居る茂り鹽梅。
又二里ばかり大蛇の畝るやうな坂を、山懷に突當つて、岩角を曲つて、木の根を繞つて參つたが此處のことで、餘りの道ぢやつたから、參謀本部の繪圖面を開いて見ました。
何矢張道は同一で聞いたにも見たのにも變りはない、舊道は此方に相違はないから心遣りにも何にもならず、固より歴とした圖面といふて、描いてある道は唯栗の毬の上へ赤い筋が引張つてあるばかり。
難儀さも、蛇も、毛蟲も、鳥の卵も、草いきれも、記してある筈はないのぢやから、薩張と疊んで懷に入れて、うむと此の乳の下へ念佛を唱へ込んで立直つたは可いが、息も引かぬ内に情無い長蟲が路を切つた。
其處でもう所詮叶はぬと思つたなり、これは此の山の靈であらうと考へて、枝を棄てゝ膝を曲げ、じり/\する地に兩手をついて、
(誠に濟みませぬがお通しなすつて下さりまし、成たけお書寢の邪魔になりませぬやうに密と通行いたしまする。
御覽の通り杖も捨てました。)と我折れ染々と頼んで額を上げると、ざつといふ凄じい音で。
心持餘程の大蛇と思つた、三尺、四尺、五尺四方、一丈餘、段々と草の動くのが廣がつて、傍の谷へ一文字に颯と靡いた、果は峯も山も一齊に搖いだ、恐毛を震つて立窘むと凉しさが身に染みて、氣が着くと山颪よ。
此の折から聞えはじめたのは哄といふ山彦に傳はる響、丁度山の奧に風が渦卷いて其處から吹起る穴があいたやうに感じられる。
何しろ山靈感應あつたか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなつたので、氣も勇み足も捗取つたが、程なく急に風が冷たくなつた理由を會得することが出來た。
といふのは目の前に大森林があらはれたので。
世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るといふ、人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは餘り樹がなさ過ぎた。
今度は蛇のかはりに蟹が歩きさうで草鞋が冷えた。暫くすると暗くなつた、杉、松、榎と處々見分けが出來るばかりに遠い處から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い、中には光線が森を射通す工合であらう、青だの、赤だの、ひだが入つて美しい處があつた。
時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜つた糸のやうな流で、これは枝を打つて高い處を走るので。ともすると又常磐木が落葉する、何の樹とも知れずぱら/\と鳴り、かさ/\と音がしてぱつと檜笠にかゝることもある、或は行過ぎた背後へこぼれるのもある、其等は枝から枝に溜つて居て何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。
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