第十八 高野聖 (Koyahijiri) | ||
18. 第十八
「ヒイイン! 叱どう/\どうと背戸を廻る蹄の音が縁へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引き出した、轡頭を取つて立ちはだかり、
(孃樣そんなら此儘で私參りやする、はい、御坊樣に澤山御馳走して上げなされ。)
婦人は爐縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を焚して居たが、振仰ぎ、鐵の火箸を持つた手を膝に置いて、
(御苦勞でござんす。)
(いんえ御懇には及びましねえ。叱!)と荒繩の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡ぢやわい。
其馬がさ、私も別に馬は珍らしうもないが、白痴殿の背後に畏つて手持不沙汰ぢやから今引いて行かうとする時縁側へひらりと出て、
(其馬は何處へ。)
(おゝ、諏訪の湖の邊まで馬市へ出しやすのぢや、これから明朝御坊樣が歩行かつしやる山路を越えて行きやす。)
(もし、其へ乘つて今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)
婦人は慌だしく遮つて聲を懸けた。
(いえ、勿體ない、修行の身が馬で足休めをしませうなぞとは存じませぬ。)
(何でも人間を乘つけられさうな馬ぢやあござらぬ。御坊樣は命拾ひをなされたのぢやで、大人しうして孃樣の袖の中で、今夜は助けて貰はつしやい。然樣ならちよつくら行つて參りますよ。)
(あい。)
(畜生。)といつたが馬は出ないわ、びく/\と蠢いて見える大きな鼻面を此方へ捻ぢ向けて頻に私等が居る方を見る樣子。
(どう/\どう、畜生これあだけに獸ぢや、やい!)
右左にして綱を引張つたが、脚から根をつけた如くに、ぬつくと立つて居てびくともせぬ。
親仁大いに苛立つて、叩いたり、打つたり、馬の胴體について二三度ぐる/\と廻はつたが少しも歩かぬ。肩でぶツつかるやうにして横腹へ體をあてた時、漸う前足を上げたばかり又四脚を突張り拔く。
(孃樣々々。)
と親仁が喚くと、婦人は一寸立つて白い爪さきをちよろ/\と眞黒に煤けた太い柱を楯に取つて、馬の目の屆かぬほどに小隱れた。
其内腰に挾んだ、煮染めたやうな、なへ/\の手拭を拔いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁は之で可しといふ氣組、再び前へ廻つたが、舊に依つて貧乏動もしないので、綱に兩手をかけて足を揃へて反返るやうにして、うむと總身の力を入れた。途端に何うぢやい。
凄じく嘶いて前足を兩方中空へ飜したから、小さな親仁は仰向けに引くりかへつた、づどんどう、月夜に砂煙がぱつと立つ。
白痴にも之は可笑しかつたらう、此時ばかりぢや、眞直に首を据ゑて厚い脣をぱくりと開けた、大粒な齒を露出して、那の宙へ下げて居る手を風で煽るやうに、はらり/\。
(世話が燒けることねえ。)
婦人は投げるやうにいつて草履を突かけて土間へついと出る。
(孃樣勘違ひさつしやるな、これはお前樣ではないぞ、何でもはじめから其處な御坊樣に目をつけたつけよ、畜生俗縁があるだツぺいわさ。)
俗縁は驚いたい。
すると婦人が、
(貴僧、こゝへ入らつしやる路で誰にかお逢ひなさりはしませんか。)
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