小春の狐
泉鏡花 (Koharu no kitsune) | ||
二
「この 蕈 ( きのこ ) は何と言います。」
山沿 ( やまぞい ) の根笹に 小流 ( こながれ ) が走る。一方は、 日当 ( ひあたり ) の背戸を横手に取って、次第 疎 ( まばら ) に 藁屋 ( わらや ) がある、中に半農――この 潟 ( かた ) に 漁 ( すなど ) って 活計 ( たつき ) とするものは、三百人を越すと聞くから、あるいは半漁師――少しばかり商いもする――藁屋草履は、ふかし芋とこの店に並べてあった――村はずれの軒を道へ出て、そそけ髪で、紺の筒袖を 上被 ( うわっぱり ) にした古女房が立って、小さな笊に、 真黄色 ( まっきいろ ) な蕈を 装 ( も ) ったのを、こう 覗 ( のぞ ) いている。と笊を手にして、 服装 ( なり ) は見すぼらしく、顔も 窶 ( やつ ) れ、髪は 銀杏返 ( いちょうがえし ) が乱れているが、毛の 艶 ( つや ) は濡れたような、姿のやさしい、色の白い 二十 ( はたち ) あまりの女が 彳 ( たたず ) む。
蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。
実は――前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を 歩行 ( ある ) いて、通りの 煮染屋 ( にしめや ) の戸口に、 手拭 ( てぬぐい ) を 頸 ( くび ) に 菅笠 ( すげがさ ) を 被 ( かぶ ) った……このあたり浜から出る女の魚売が、 天秤 ( てんびん ) を 下 ( おろ ) した処に 行 ( ゆ ) きかかって、 鮮 ( あたら ) しい雑魚に添えて、つまといった形で、おなじこの蕈を笊に装ったのを見た事があったのである。
銀杏の葉ばかりの 鰈 ( かれい ) が、黒い尾でぴちぴちと跳ねる。 車蝦 ( くるまえび ) の小蝦は、 飴色 ( あめいろ ) に 重 ( かさな ) って 萌葱 ( もえぎ ) の脚をぴんと跳ねる。 魴※ ( ほうぼう )
の 鰭 ( ひれ ) は 虹 ( にじ ) を刻み、 飯鮹 ( いいだこ ) の紫は五つばかり、 断 ( ちぎ ) れた雲のようにふらふらする……こち、めばる、青、鼠、 樺色 ( かばいろ ) のその 小魚 ( こうお ) の色に 照映 ( てりは ) えて、黄なる蕈は美しかった。山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の 十 ( とお ) やら十五は知っている。が、それはまだ見た事がなかった。……それに、私は妙に蕈が好きである。……覗込んで何と言いますかと聞くと「霜こしや。」と言った。「ははあ、霜こし。」――十一月初旬で―― 松蕈 ( まつたけ ) はもとより、しめじの類にも時節はちと寒過ぎる。……そこへ出盛る蕈らしいから、霜を越すという意味か、それともこの蕈が生えると霜が降る……霜を起すと言うのかと、その時、考うる 隙 ( ひま ) もあらせず、「 旦那 ( だんな ) さんどうですね。」とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い 剽軽 ( ひょうきん ) もので、
「買うてやらさい。旦那さん、酒の 肴 ( さかな ) に……はははは、そりゃおいしい、 猪 ( しし ) の味や。」と大口を開けて笑った。――紳士淑女の方々に高い声では 申兼 ( もうしか ) ねるが、猪はこのあたりの方言で、……お察しに任せたい。
唄で覚えた。
薬師山から湯宿を見れば、ししが髪 結 ( ゆ ) て身をやつす。
いや……と言ったばかりで、 外 ( ほか ) に見当は付かない。……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ 遁足 ( にげあし ) に急いだっけが――笑うものは笑え。――そよぐ風よりも、湖の 蒼 ( あお ) い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも 颯 ( さっ ) とかかる、霜こしの 黄茸 ( きたけ ) の風情が忘れられない。皆とは言わぬが、再びこの温泉に遊んだのも、半ばこの蕈に興じたのであった。
――ほぼ心得た名だけれど、したしいものに近づくとて、あらためて、いま聞いたのである。
「この蕈は何と言います。」
何が何でも、一方は人の内室である、他は淑女たるに間違いない。――その 真中 ( まんなか ) へ顔を入れたのは、考えると無作法千万で、都会だと、これ交番で叱られる。
「霜こしやがね。」と買手の古女房が言った。
「 綺麗 ( きれい ) だね。」
と思わず言った。 近優 ( ちかまさ ) りする若い女の 容色 ( きりょう ) に打たれて、私は知らず目を 外 ( そら ) した。
「こちらは、」
と、片隅に三つばかり。この方は笠を上にした茶褐色で、霜こしの黄なるに対して、 女郎花 ( おみなえし ) の根にこぼれた、 茨 ( いばら ) の枯葉のようなのを、――ここに二人たった 渠等 ( かれら ) 女たちに、フト思い 較 ( くら ) べながら指すと、
「かっぱ。」
と語音の調子もある……口から吹飛ばすように、ぶっきらぼうに古女房が答えた。
「ああ、かっぱ。」
「ほほほ。」
かっぱとかっぱが 顱合 ( はちあわ ) せをしたから、若い女は、うすよごれたが 姉 ( あね ) さんかぶり、茶摘、桑摘む絵の風情の、手拭の口に 笑 ( えみ ) をこぼして、
「あの、川に 居 ( お ) ります 可恐 ( こわ ) いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。」
「そんで 幾干 ( いくら ) やな。」
古女房は委細構わず、笊の縁に指を掛けた。
「そうですな、これでな、十銭下さいまし。」
「どえらい事や。」
と、しょぼしょぼした目を ※ ( みは )
った。 睨 ( にら ) むように顔を 視 ( なが ) めながら、「高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」
「まあ、」
「三銭にさっせえよ。――お 前 ( めえ ) もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには 行 ( ゆ ) かんぞな。」
「でも、」
と 蕈 ( きのこ ) が映す影はないのに、女の 瞼 ( まぶた ) はほんのりする。
安値 ( やす ) いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、 隙 ( すき ) がない。女が手を離すのと、笊を 引手繰 ( ひったく ) るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って 行 ( ゆ ) く。
私は腕組をしてそこを離れた。
以前、私たちが、 草鞋 ( わらじ ) に手鎌、 腰兵粮 ( こしびょうろう ) というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た 験 ( ためし ) は余りない。
たった三銭――気の毒らしい。
「御免なして。」
と 背後 ( うしろ ) から、 跫音 ( あしおと ) を立てず 静 ( しずか ) に来て、早や一方は窪地の蘆の、 片路 ( かたみち ) の山の根を 摺違 ( すれちが ) い、慎ましやかに前へ通る、すり 切 ( きれ ) 草履に 踵 ( かかと ) の霜。
「ああ、姉さん。」
私はうっかりと声を掛けた。
小春の狐
泉鏡花 (Koharu no kitsune) | ||