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葉山嘉樹 (Umi ni ikuru hitobito) | ![]() |
四七
彼らは 各 ( おのおの ) 自分の運命を知った。そしてその 行李 ( こうり ) へありったけの彼らの持ち物を詰めた。彼らは、その持っている者は、 布団 ( ふとん ) までも行李に詰めた。彼らの行李はなお余裕を持っていた。彼らは、全く簡単に、その世界一周旅行にでも上りうるのであった。船乗りの生活は乗客として見た場合には、全く異なった観を呈する。それは、水火夫に至っては、乗客から見たのではまるでわからないのだ。ことに貨物船においては、乗客がないのだ。乗客がないということは世間| 態 ( てい ) がないということになるのだ。 風呂 ( ふろ ) さえないのだ。 搾 ( しぼ ) りたいだけ搾るのだ。
彼らは、食って着るだけでなお不足であったので、従って、その最初船に乗る時に買った行李、その中へ詰まっていた種々の物が、だんだん減っては行ってもふえて行くなどと言うことはほとんどなかった。
その 空隙 ( すきま ) の多い、中実の少ない行李を引っかついだ彼らは、あたかも移住民の一列のように続いて彼らの 塒 ( ねぐら ) からサロンへとおもむいた。
彼らの去ることを知ったボーイ長の悲嘆ははなはだしかった。彼は、藤原と、波田との手にすがって、何か言いたそうにしていたが、ようやく出た言葉は、はげしい 嗚咽 ( おえつ ) のために聞きとることができなかった。だが、彼は嗚咽を語ったのだ! 彼は一切を奪われた。その最初であると同時に最後のものである。彼の売ることのできる唯一の労働力さえも、彼が労働力を売ったことが原因となって、奪い去られてしまったのだ。
そして、彼を保護し、愛してくれた人々は、今警官のいるところへ、船長に下船の用意をして来いといわれて、出かけて行くのだ。その船長は何だ! 自分の生命にさえ一顧を与えない勇猛果断な男だ。ボーイ長は、自由を奪われて以来病的に発達した神経によって、そこには何かよからぬことが待ち受けてるに違いない、ことを直感したのであった。藤原さんや、波田さんたちはもう下船させられるんだ。そして、おれは動けもしないこの足で、あの冷酷なメーツたちの下にどうなるんだろう。忘れっ放されるんだ! 彼は泣いた。
泣くということは、それは船では今までなかったことだ。血気な青年が壮年の労働者たちの間に泣くということは見られないことであった。
ボーイ長は歯を食いしばって、 嗚咽 ( おえつ ) を止めようとした。そして厚い礼も言いたい。彼らの今後の行動の予定も知りたい。どうすればどこで会えるか、その方法も知りたい。また取りあえずの所書きももらって置きたい。自分の所書きも渡したい。ああも、こうもしたかった。それだけなおさら、彼の涙は、あふれ落ちた。彼の泣き声は食いしばった歯の間から、鋭くもれた。
藤原のほとんど冷酷な、動いたことのない意志そのもののような目の中にも、重く、鋭く、悲しみがひらめいた。
波田も歯を食いしばった。そして力をこめてボーイ長の手を握った。そして、
「からだを大切にして、早くなおりたまえね」と言った。が、彼は、自分たちが去ったあとではボーイ長はどうなるだろう、その傷や 病 ( やまい ) はだれが気をつけるのだろう、と思っては、「なおりたまえ」という言葉さえも惨酷な言葉であったと思うのだった。打っちゃらかしといて、どうしてけがや病がなおりうるか、だれがこの責任を負うのだ! と思うて、彼は思わず涙のにじみ出るのを覚えた。そして彼の心は、ますますのろいの 焔 ( ほのお ) を強く燃え立たせた。
「またどこかで、会うこともあるだろう。それまで、お互いに丈夫でいようよ、じゃ大切にしたまえ、さようなら」藤原は一握して立ち去った。
「からだを大切にしてください。さようなら」とボーイ長はいって、その 枕 ( まくら ) に頭を 埋 ( うず ) めた。「さびしいなあ」彼は、止め度もなくあふれる涙の中へ顔をいつまでも埋めていた。
「資本主義制度は、くもの巣みたいに、おれたちを引っくるんでいるんだ。どうあがいてもそれは気味悪くからみついて来るばかりだ、畜生! 今に見ていろ土ぐもめ!」藤原は考えながらデッキを大またに歩いた。
サロンには、船長以下メーツらは、その装飾した上陸姿を並べていた。
警察の巡査は後ろの方に立っていた。
「フン、無意識的にブルジョアやその(以下十四字不明)、(以下十字不明)!」藤原はその情景を外からながめて感じた。
波田は、全身の血が頭に逆流した。彼は、心臓でもえぐるように、船長の顔に燃えるような目を注いだ。
船長は、しかし、今は充分に「因襲的尊厳」の 鎧 ( よろい ) を着て、旗、差し物沢山で控えていた。
一同は、その 各 ( おのおの ) の、行李をサロンの出入り口へ投げ出して、一様に不愉快な気持ちを 抱 ( いだ ) いてそこへ行った。
「皆そろったね」と船長はチーフメーツに言った。
「ええ、これで全部です」チーフメーツは答えた。
「それじゃ、いい渡してください」
「ボースン、小倉、宇野、西沢、とこの四人は、下船命令、藤原、波田も同様皆、僕と一緒に海事局まで行ってくれ、それから、藤原と波田とは海事局には行かないでよろしい。手帳はあとで渡すから。 二人 ( ふたり ) は警察の方で用事があるそうだから」それが宣告であった。そして彼は、つけ加えを忘れなかった。「だから、おれが室蘭で、よした方がいいと言ったんだ。お前らが、いくら威張ってもあかん。それよりおとなしくした方が得だ。おとなしくしとれば、人の 憐 ( あわれ ) みもかかるが、強いことをいうと、こういう際にだれも相手になり手がないからな」
「自分によくいって聞かせとくがいいや、おれらのことならお世話にゃならないや。道が 異 ( ちが ) ってるんだからなあ。そのうちどんなお礼をするか覚えてろ!」波田は怒鳴りつけた。
「あれが波田ってやつです。あんな乱暴なやつです!」船長が言った。
「何を! べら棒め! 死にかけた人間を打っちゃらかしとくようなやつが、人のことがいえるかい。 手前 ( てめえ ) より乱暴なやつはねえんだぞ、圧搾器め!」波田は船長をも怒鳴りつけた。
「マ、せいぜいあばれて、警察で油をしぼられるがいいさ」船長は言った。
「おれの出て来るまで、手前は丈夫で生きているように、おれは祈ってらあ。途中で燃やされちゃわねえように気をつけな」
だが、船長は、 早速 ( さっそく ) 引っ込んでしまった。
チーフメーツは、ボースン、小倉、宇野、西沢を連れて、二人の警官と共に海事局に行った。
彼らはそこで物の見事に首を 馘 ( き ) られた。
これが十二月三十一日だ。
藤原と波田とはランチで水上署へ行った。
正月の四日までは警察も休みだった。従って、藤原と波田は、留置所の中で正月を休むことができた。
彼らは正月の仕事初めから、司法で調べを受けた。そして治安警察法で検事局へ送られた。
検事は彼らを取り調べるために、彼らを監獄の未決監に拘禁した。
彼らには面会人も差し入れもなかった。あたかも彼らは 禁錮 ( きんこ ) 刑囚のように、監房の板壁をながめた。
食事窓や、のぞき窓や、その他のすき間からは、 剃刀 ( かみそり ) の刃のような冷たい風がシュッシュッと吹き込んだ。
彼らは、そこで刑の決定されるのを待った。
――終――
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