![]() | 海に生くる人々
葉山嘉樹 (Umi ni ikuru hitobito) | ![]() |
四二
夜が明けた。風がヒューヒューうなっていた。灰色の空は、どこからともなく、山となく平原となく水平線となく、とけ合ってしまっていた。その間を粉のような灰色の雪が横っ飛びにケシ飛んでいた。だが、大した雪ではなかった。目も、鼻も、あけられないと言う、あの特徴的のやつではなかった。風は、大黒島を代われば必ず、前航海ほどには吹いているだろうとは想像された。
ハッチは、まだその口をあけたままであった。それは 粟 ( あわ ) おこしを食った子供の口の辺に似ていた。デッキじゅうは石炭だらけであった。その各片はデッキの 鋳瘤 ( いこぶ ) のように、デッキへ堅く凍りついていた。
ボースンはチーフメーツのところへ、その作業の順序を聞きに行った。すぐそのあとからストキ藤原が、清書された要求書を持って続いて行った。小倉は、起きると共に火夫室へ行った。
水夫らは、それはいつもの朝とは何だか大変違った朝のような気がした。全く実際違った朝ではなかっただろうか。
ボースンは、チーフメーツの室にはいった。そして彼はあとを締めようとすると、もうストキがすっかりそのからだを入れていた。そして 扉 ( ドア ) はあとからストキによって締められた。
「お早うございます」とボースンはいった。
「うんすぐ……」チーフメートが仕事の命令を発しようとすると、ストキはすぐに、チーフメートの机の上に、その要求条件を載せた。
「水夫一同は、その要求書どおり要求しますから、要求を 容 ( い ) れてください。そしてその要求書に判をおしてください。つまりそれが要求承認の意味になるのです」
ボースンはそこへ凍りついた棒のように立っていた。
チーフメーツは、 暗礁 ( あんしょう ) に乗り上げたよりももっともっと驚いた。
それはありうることではなかった。暗礁はありうるが、水夫らが要求書を出すなんてことが! 彼は 憤 ( おこ ) ってしまった。
「何だ、要求だ! どんな要求だ! 乗船停止の要求か!」チーフメーツは怒鳴った。
ボースンは縮み上がった。彼は、私は知りませんと言いたかったが、――そこにストキが立っているではないか――ああ、困った。彼は字義どおり立ち往生した。
ストキは平気だった、「初めやがった」と彼は思っていた。
「そこに書かれてある通りの要求です。ご質問があればお答えいたします」
ストキは「 癪 ( しゃく ) にさわる」ほど落ちついていた。
「どんな要求でも今はいけない。横浜へ帰ってからだ!」チーフメーツは、事態が自分の考えてるように簡単でもなく、また予想どおりにも行かないだろうということをさとった。
「私たちは、室蘭で片がつかなければ働かないだろうと思います。この要求はほとんど海事法に定められてある最小範囲から、きわめてわずか出ているか、いないくらいのものだし、その他の問題も普通の問題です。今ごろ要求するのは、われわれの 迂愚 ( うぐ ) であり、同時に万寿丸の恥辱でしょう。しかし、それは、われわれにとっては、全く切実な問題なのです。これは、あなた方にとって全く一顧の価値もない、軽易な問題でしょう。それがわれわれには重大な問題なのです。これをごらんの上承諾してくださるように希望します」
ストキはまるで小学校の生徒が読まされる時のように、「まじめ」くさってそう言った。
ボースンはもじもじしていた。逃げるにも逃げられないわけであった――
「とにかく、おれには何とも返事ができない。船長が帰ってから、船長と相談して返答する。だが、ストキ、こんなこたあよした方がいいぜ、これはお前のためにおれは言うがなあ、もうお前も三十三なんだから、考えてもいい年じゃないか、これや全くよした方がいいぜ、船長がウンというはずがないと思うぜ。そうすれや、お前たちゃ一年か三年ぐらいの停船命令は食わにゃなるまいぜ、え、どうだ、おもてへかえって、水夫らに思いかえすようにすすめたら」
チーフメーツは、そのコースを転換した。
「私はそういうわけには行きません。ひっ込められるような、どうでもいいような要求を私たちは出しはしません。それはわれわれの生命や生活にとって切実な事柄ばかりなんですから。冗談や退屈しのぎ半分でこんなことをしはしません。私たちは乗船停止なんてことを今ごろ恐れているようでは、こんな要求ができないことを知っています。要するに、私たちは、この要求が、 容 ( い ) れられなければ、私たちとしては、どんな仕事にもつかないという申し合わせがしてありますから。私はただ、使いとしてこの要求書の提出とその説明とを引き受けて来たのです」ストキはチーフメーツの戦術にはつり込まれなかった。
「それじゃどうしてもきかんというのなら、船長におれから渡すまでだ。だが、それは承認されないよ、そしておれの顔も踏みつぶすつもりなんだな」チーフメーツは自分の手で納めたかった。
「そうです! 船長に渡してください。それから、あなたの顔をつぶすとかつぶさないとか言うのは、おかしいと思います。そんなことはどうだっていいようなものだけれど、誤解があるといけないからいっときますが、この要求書は最初あなたに出したんですよ。そうするとあなたはおれでは決められんから船長へといわれるのでしょう。で船長へ渡すことを頼めば『おれの顔をつぶす』といわれるのですね」
「そうではないか、おれの言うことを聞かんじゃないか」チーフメーツは一つグッと押した。
「それではあなたは、私たちの要求書の決定権を持たないというときながら、握りつぶす権利を持ってることになりはしませんか、握りつぶすことは否定することじゃありませんか、否定する権利だけ持っていて肯定する権利を持たないと言うことは、このごろの流行にしても、理屈には合わないじゃありませんか。だから、あなたに対して、今ではわれわれは何らの要求もしません。ただ取り次いでいただけばいいのです」ストキはやっぱりまじめに、急がず、何か相談でもしてるような調子で話した。
それは全くチーフメーツの顔をつぶしてしまった。彼はうんともすんともいわなかった。
「船長が帰ったら渡すよ」
「どうぞ願います」ストキはいった。
大工はフォックスル(おもての甲板)へ上がって 揚錨機 ( キャプスタン ) をゴットンゴットンと調節したり、油を差したりしていた。
ボースンはチーフメーツの室で、おそろしくきまりの悪い思いをしながらまだ、そこに突っ立っていた。
「どうしたんだい。ボースン、お前はこれを知らなかったのかい」チーフメーツはその机の上の要求書を指さしてきいた。
「早いことをやるものです。私はまるで存じませんでした」ボースンはよみがえったように答えた。彼はもう先刻から、何でもいいから一言口がききたくてたまらなかったのだ。
「すこしも知らないじゃ困るじゃないか、お前に責任があるんだぜ。一体どうするつもりなんだ。それに 今日 ( きょう ) 出帆が遅れでもすると正月には横浜へ帰れやしないぜ。そんなことにでもなって見ろ、船長は、 一人 ( ひとり ) 残らず下船を命じかねないから、お前はどうするつもりかい」チーフメーツはボースンから切りくずして行こうととっさに考えついた。
「私は……、困りましたなあ、ボイラーを揚げる時もようやくなだめて仕事をさせたのですけれどもなあ、とにかく全く私もぬかっていたのですから、おもてへ行ってできるだけ仕事するように話して見ます……」彼は確信でもあるもののようにあわててそこを立ち去ろうとした。
![]() | 海に生くる人々
葉山嘉樹 (Umi ni ikuru hitobito) | ![]() |