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葉山嘉樹 (Umi ni ikuru hitobito) | ![]() |
一〇
朝食は八時である。波田は、ボーイ長が負傷したため、仕事の間に炊事の方をやらねばならなかった。二時間ばかり間があるので、彼はその時間を、自分のベッドへともぐり込んだ。彼は、八時になると、コックから起こされた。彼は、おもての人たちが食べるように、大きなみそ汁| 鍋 ( なべ ) と、お 鉢 ( はち ) とを、コック 場 ( ば ) から抱いて来て、柱に添うてつり下げた、テーブルの上へそれを載せた。それから彼はあらゆる準備を終えて「飯だ!」と怒鳴った。
ボーイ長には、昨夜どおりに、みそ汁を添えて与えて、彼は第一番に朝食についた。それは、全くうまい飯であった。みそ汁もうまかった。 沢庵 ( たくあん ) も、……
波田が食っているうちに皆も眠い目をこすりこすり起きて、飯にとりかかった。
船の飯はうまかった。それは、全く沢山食われた。それは味としては実にまずさこの上もないものであった。みそ汁にしろ、沢庵にしろ、味という点から味わう時にそれは 零 ( ぜろ ) であった。けれども、これがセーラーたちにはこの上もなくうまかった。彼らはよくそれほど多量に食べると思うほどむさぼり食った。
ストキは波田に、セーラーたちが、まずいものを多く食べることには、心理的な部分も非常に手伝っているといったことがあった。ストキに従えばこうであった。
セーラーは食物を定期に与えられる。彼らは、どの食事の前にも少なくとも、四時間の労働を課せられている。彼らは十分空腹である。時間が来ると、彼らは食卓へかけつける。食卓には、盛り切りの 惣菜 ( そうざい ) が一| 皿 ( さら ) ずつ置かれてある。やや充分に食べるためには、沢庵だけしかない。彼らは、いつでも、次の食事がはなはだしく待ち遠い。それは、空腹が待たせるよりも、も一つの重要な理由は、次の食事が来るということが、その日の労働をそれだけ成し終えたという、一つの安心を彼らに与えることと、その食事のあとにいくらかの時間が、彼らに与えられていることとである。彼らはこれらの心理
作用によって、待ち兼ねた食事が済むと、すぐに次の食事を、ゲーゲーおくびを出しながら待つのである。彼らはまた食事と食事との間に、間食することができない。彼らは食事に際して、そこに盛られた量以上の菜は絶対に食い得ない。また、それ以外の菜も海上において求むべき方法がない。ちょうど彼らは囚人が、その胃腸を少食のためにそこないつつ、 堪 ( た ) えられない飢えを訴え、次の食事に対して焦燥を感じつつ待つのと、同様である。セーラーたちが、食事をそれほど待ち、むさぼるのは、それが自分自身のためにする(これは資本家のために、再生産することにもなる)唯一の生活手段であるからだ。自分のためにする何らの仕事のない時、ただ一つの自分自身の事があるならば、それはだれにでも、重大に取り扱われねばならないことだ。ことにそれがパンの問題に関する時は、なおさらそうでなければならない。
実際彼らは、その食事を、実際より以上に、想像をもって調理して食うのである。じゃがいものうでたのが塩で味をつけて盛られてあると、彼らは、それをキントンと呼ぶのである。そして、それは全くきんとんのようにうまいのである。
外国航路における船では、決してこんな状態ではないが、それにしても心理的には、やはりそうである。けれども、万寿丸は、これがはなはだしい。万寿丸では、船主は甲板部に豚を飼っているつもりででもあるらしい。
「こんな状態では、だれでも、心細さからだけでも、のどまで詰め込みたくなることは事実である」と。これがストキのプロレタリア哲学であった。
事実、ストキは 質 ( たち ) が悪い、第三者のつもりで、自分があらかじめ腹を作って置いて、その状態をながめる時に、ストキの観察及び批評は当たっていると、思わずにはいられないのである。
食事は、藤原の皮肉なる観察のごとくにして終わった。終わるやいなやまた元のごとく寝床へ犬のようにもぐり込んだのが、三上であった。西沢は 煙草 ( たばこ ) に火をつけて、彼が最も得意とする、信州| 岡谷 ( おかや ) 付近の紡績工場へ勤めていたころのローマンスの一くさりを語り始めた。彼の話は実にうまかった。講談師でもあれほどには話さないであろうと思われるほど、一切を創作的に述べるのであった。そして、その話がうまければうまいほど、初めの人は感心し、古顔は、にげ出してしまうのであった。
今は、藤原も、波田も、にげ出すわけに行かなかった。ほかにだれも西沢のローマンスを引き受けてくれるものがないからであった。藤原は辛抱する気でこれもむやみに、煙草をふかした。
西沢の話が、その巧妙なる山にはいって、今まさに落ちようとする時、藤原がいった。
「君の話は大変うまい。そして大層おもしろい。ただ、一度だけ純粋なほんとの話をして聞かしてもらったら、なおおもしろいだろうと思うよ」
「アハハハハ、君の皮肉の方が 上手 ( じょうず ) だよ。僕も一度ほんとうな話をしたいと思うんだが、どれがほんとだか、どこからがこしらえたんだか、今では自分にもわからなくなってしまったんだ。ハハハハハ」と気のよさそうに笑った。
「君は全く、無産階級芸術家の宝玉だ。全くだよ」と藤原は、全くまじめにいった。
「小銃だと受けこたえができるが、藤原君がタンクを使用し始めると、僕も退却以外に応戦の法がねえや。ハッハハハハ」
西沢も、そのベッドへ上がって、ころがってしまった。
「どうだい、だれもかも皆寝ちゃったね。『寝るほど楽はなかりけり、浮世のばかが起きて働く』って歌があるじゃないか、皆賢くなっちゃったね」といいながら波田は、自分の巣から本を持ち出して来て、それを、 罐詰 ( かんづめ ) の 蓋 ( ふた ) のところへ行って読み始めた。
藤原はしばらく、暗い室の中で、煙草の火だけを、時々明るくさせては 一人 ( ひとり ) 、何か考えているのであった。が、やがて彼は煙草を捨てて立ち上がった。
「波田君、君は感心に本を読むね、それは何て本だい。航海学かい」
「ナアニ、友人から借りて来たんだが、とてもむずかしくて、わからねえんだ」
「ちょっと見せたまえ、ヘヘー、マルクス全集、第一巻2
か、資本論か、それや君、社会主義の本じゃないかい」藤原は、自分もその本を非常に読みたく思っていたが、あまり高価なので今まで買うことができなかった。彼は中をめくって見ながら「おもしろいかい」ときいた。
「おもしろいか、おもしろくないか、ためになるか、ならぬか、まるでわからぬよ。意味がわからないんだ。ところどころサーチライトで照らし出したほど部分的にわかるところがあるんだ。そこはね、本文の論旨を説明するために引例したところさ。その例だけはわかる。そしてすてきにおもしろい。おもしろいというより、何だか、僕たちのことが、僕たちの知ってるより以上にくわしく書かれているよ。だけど、その例以外はまるでわからないんだよ」波田は正直に答えた。
「僕にも読ましてくれ、ね」藤原は頼んだ。
「ああ、いいとも、読んでくれたまえ、まだ続きが三冊あるからね」
「僕も本を読むことは好きだったよ。随分よく読んだものだよ」といって彼は、波田と並んで木のベンチへ腰をおろした。彼は、人を人とも思わないような、ブッキラ棒な男であった。そして必要以上は口をきくことがきらいなように見えた。
「全く君は読書家だね」と波田は藤原に同意した。「そして、どんな本を君は好んで読んだかい」
「僕はね。ありとあらゆる詰まらない本を読みあさったよ。珠算| 独 ( ひと ) り学びなどいう本まで、珠算なんてする気もなく読んだし、ドンキホーテも、渡辺崋山
( わたなべかざん ) も、 占易 ( うらない ) の本から、小学地理、歴史、修身、全く何でもかでも活字の並んでいるものは手当たり次第に読んだよ」と、藤原は、何だか、 河 ( かわ ) の堤防が決壊しでもしたように渦を巻いて彼の話を話し出した。![]() | 海に生くる人々
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