![]() | くさつた蛤 月に吠える (Tsuki ni hoeru) | ![]() |
くさつた蛤
なやましき春夜の感覚とその疾患
椅子
椅子の下にねむれるひとは
おほいなる家をつくれるひとの子供らか。
おほいなる家をつくれるひとの子供らか。
内部に居る人が畸形な病人に見える理由
わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居りま
す
それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。
わたしは手に遠めがねをもつて居ります
それでわたくしは ずつと遠いところを見て居ります
につける製の犬だの羊だの
あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります
それらがわたくしの瞳を いくらかかすんでみせる理由です。
わたしはけさ きやべつの皿を喰べすぎました
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です
それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。
じつさいのところを言へば
わたくしは健康すぎるぐらゐなものです
それだのに なんだつて君は そこで私をみつめてゐる。
なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。
もちろん わたくしの腰から下ならば
そのへんがはつきりしないといふならば
いくらか馬鹿げた疑問であるが
もちろん つまり この青白い窓の壁にそうて
家の内部に立つてゐるわけです。
それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。
わたしは手に遠めがねをもつて居ります
それでわたくしは ずつと遠いところを見て居ります
につける製の犬だの羊だの
あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります
それらがわたくしの瞳を いくらかかすんでみせる理由です。
わたしはけさ きやべつの皿を喰べすぎました
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です
それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。
じつさいのところを言へば
わたくしは健康すぎるぐらゐなものです
それだのに なんだつて君は そこで私をみつめてゐる。
なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。
もちろん わたくしの腰から下ならば
そのへんがはつきりしないといふならば
いくらか馬鹿げた疑問であるが
もちろん つまり この青白い窓の壁にそうて
家の内部に立つてゐるわけです。
春夜
淺蜊のやうなもの
蛤のやうなもの
みぢんこのやうなもの
それら生物の身體は砂にうもれ
どこからともなく
絹いとのやうな手が無數に生え
手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
あはれこの生あたたかい春の夜に
そよそよと潮みづながれ
生物の上にみづながれ
貝類の舌も ちらちらとしてもえ哀しげなるに
とほく渚の方を見わたせば
ぬれた渚路には
腰から下のない病人の列があるいてゐる
ふらりふらりと歩いてゐる。
ああ それら人間の髪の毛にも
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ
よせくる よせくる
このしろき浪の列はさざなみです。
蛤のやうなもの
みぢんこのやうなもの
それら生物の身體は砂にうもれ
どこからともなく
絹いとのやうな手が無數に生え
手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
あはれこの生あたたかい春の夜に
そよそよと潮みづながれ
生物の上にみづながれ
貝類の舌も ちらちらとしてもえ哀しげなるに
とほく渚の方を見わたせば
ぬれた渚路には
腰から下のない病人の列があるいてゐる
ふらりふらりと歩いてゐる。
ああ それら人間の髪の毛にも
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ
よせくる よせくる
このしろき浪の列はさざなみです。
ばくてりやの世界
あるものは人物の胎内に
あるものは貝るゐの内臟に
あるものは玉葱の球心に
あるものは風景の中心に。
あるものは貝るゐの内臟に
あるものは玉葱の球心に
あるものは風景の中心に。
ばくてりやがおよいでゐる。
ばくてりやの手は左右十文字に生え
手のつまさきが根のやうにわかれ
そこからするどい爪が生え
毛細血管のるゐはべたいちめんにひろがつてゐる。
手のつまさきが根のやうにわかれ
そこからするどい爪が生え
毛細血管のるゐはべたいちめんにひろがつてゐる。
ばくてりやがおよいでゐる。
ばくてりやが生活するところには
病人の皮膚をすかすやうに
べにいろの光線がうすくさしこんで
その部分だけほんのりとしてみえ
じつに じつに かなしみたへがたく見える。
病人の皮膚をすかすやうに
べにいろの光線がうすくさしこんで
その部分だけほんのりとしてみえ
じつに じつに かなしみたへがたく見える。
ばくてりやがおよいでゐる。
およぐひと
およぐひとのからだはななめにのびる
二本の手はながくそろへてひきのばされる
およぐひとの心臟はくらげのやうにすきとほる
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
二本の手はながくそろへてひきのばされる
およぐひとの心臟はくらげのやうにすきとほる
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
ありあけ
ながい疾患のいたみから
その顏はくもの巣だらけとなり
腰からしたは影のやうに消えてしまひ
腰からうへには薮が生え
手が腐れ
身體いちめんがじつにめちやくちやなり
ああ けふも月が出て
有明の月が空に出て
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで
畸型の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく
さみしい道路の方で吠える犬だよ。
その顏はくもの巣だらけとなり
腰からしたは影のやうに消えてしまひ
腰からうへには薮が生え
手が腐れ
身體いちめんがじつにめちやくちやなり
ああ けふも月が出て
有明の月が空に出て
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで
畸型の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく
さみしい道路の方で吠える犬だよ。
猫
まつくろけの猫が二匹
なやましいよるの屋根のうへで
ぴんとたてた尻尾のさきから
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ こんばんは』
『おわあ こんばんは』
『おぎやあ おぎやあ おぎやあ』
『おわああ ここの家の主人は病氣です』
なやましいよるの屋根のうへで
ぴんとたてた尻尾のさきから
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ こんばんは』
『おわあ こんばんは』
『おぎやあ おぎやあ おぎやあ』
『おわああ ここの家の主人は病氣です』
貝
つみたきもの生れ
その齒はみづにながれ
その手はみづにながれ
潮さし行方もしらにながるるものを
淺瀬をふみてわが呼ばへば
貝は遠音にこたふ。
その齒はみづにながれ
その手はみづにながれ
潮さし行方もしらにながるるものを
淺瀬をふみてわが呼ばへば
貝は遠音にこたふ。
麥畑の一隅にて
まつ正直の心をもつて
わたくしどもは話がしたい
信仰からきたるものは
すべて幽靈のかたちで視える
かつてわたくしが視たところのものを
はつきりと汝にもきかせたい
およそこの類のものは
さかんに裝束せる
光れる
おほいなるかくしどころをもつた神の半身であった。
わたくしどもは話がしたい
信仰からきたるものは
すべて幽靈のかたちで視える
かつてわたくしが視たところのものを
はつきりと汝にもきかせたい
およそこの類のものは
さかんに裝束せる
光れる
おほいなるかくしどころをもつた神の半身であった。
陽春
ああ 春は遠くからけぶつて來る
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに
やさしいくちびるをさしよせ
をとめのくちびるを吸ひこみたさに
春は遠くからごむ輪のくるまに乘つて來る。
ぼんやりした景色のなかで
白いくるまやさんの足はいそげども
ゆくゆく車輪がさかさにまはり
しだいに地面をはなれ出し
おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして
これではとてもあぶなさうなと
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに
やさしいくちびるをさしよせ
をとめのくちびるを吸ひこみたさに
春は遠くからごむ輪のくるまに乘つて來る。
ぼんやりした景色のなかで
白いくるまやさんの足はいそげども
ゆくゆく車輪がさかさにまはり
しだいに地面をはなれ出し
おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして
これではとてもあぶなさうなと
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。
くさつた蛤
半身は砂のなかにうもれてゐて
それでゐてべろべろ舌を出してゐる。
この軟體動物のあたまの上には
砂利や潮みづがざらざらざらざら流れてゐる
ながれてゐる
ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。
ながれてゐる砂と砂との隙間から
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる
この蛤は非常に憔悴れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臟がくさりかかつてゐるらしい
それゆゑに哀しげな晩がたになると
青ざめた海岸に坐つてゐて
ちら ちら ちら ちらとくさつた息をするのですよ。
それでゐてべろべろ舌を出してゐる。
この軟體動物のあたまの上には
砂利や潮みづがざらざらざらざら流れてゐる
ながれてゐる
ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。
ながれてゐる砂と砂との隙間から
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる
この蛤は非常に憔悴れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臟がくさりかかつてゐるらしい
それゆゑに哀しげな晩がたになると
青ざめた海岸に坐つてゐて
ちら ちら ちら ちらとくさつた息をするのですよ。
春の實體
かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて
春がみつちりとふくれてしまつた
げにげに眺めみわたせば
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
櫻のはなをみてあれば
櫻のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ
やなぎの枝にも もちろんなり
たとへば蛾蝶のごときものさへ
そのうすき翅は卵にてかたちづくられ
それがあのやうに ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ 瞳にもみえざる
このかすかな卵のかたちは楕圓形にして
それがいたるところに押しあひへしあひ
空氣中いつぱいにひろがり
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつてゐるのだ
よくよく指のさきでつついてみたまへ
春といふものの實體がおよそこのへんにある。
春がみつちりとふくれてしまつた
げにげに眺めみわたせば
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
櫻のはなをみてあれば
櫻のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ
やなぎの枝にも もちろんなり
たとへば蛾蝶のごときものさへ
そのうすき翅は卵にてかたちづくられ
それがあのやうに ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ 瞳にもみえざる
このかすかな卵のかたちは楕圓形にして
それがいたるところに押しあひへしあひ
空氣中いつぱいにひろがり
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつてゐるのだ
よくよく指のさきでつついてみたまへ
春といふものの實體がおよそこのへんにある。
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